筆記体

筆記体が消えている、という話なのだけれど、これは確か。実際に学生で筆記体で課題を出す人はほとんどいないし。考えてみれば、私が中学生だった頃に、なぜ教えていたのか、の方が微妙に不思議だったり。*1

文部科学省に問い合わせてみたところ、「筆記体は、平成10年に改訂された学習指導要領から『教えることができる』という記述に変わり、必須ではなくなりました」とのこと。授業時間が減ったことなどによる負担を考慮して、というのが理由らしいが、やっぱり現場でも「教えることができる」=「教えなくても OK」=「教えない」ってことになっているのだろうか? 公立中学校で英語を教えている先生に話を聞いてみた。

「私は教えていないです。よって現在、私の学校ではほとんどの生徒が筆記体を書けません。とはいえ生徒は何故か筆記体に憧れて書きたがるので、名前くらいは教えたりもしていますね。積極的に『覚えたい!』と言ってきた生徒には、昔の教材をコピーしてあげたりもしますが、時々黒板にばーっと筆記体を書くとわーっと声があがるくらい、筆記体はレアな存在になっています。授業ではコミュニケーションを重視しているのと、海外では筆記体を実際に使用している人が少ないこともあって、私は教えていないんですよ」

いや授業時間がどうの、というよりは、何よりも、この記事に出ている「日本の外ではあまり使われていない」というのが大きいのではないかと。日本で草書に出くわすくらいには出くわさない気が・・・・なんというかずいぶん昔の文化が日本の教育システムに生き残っちゃった、みたいな感じ。
では、ブロック体ならいいのか、というとそうでもなくて、大概、アルファベットを使う国ではブロック体が国ごとに崩されたような形になっているかも。

学生の書いてくる英文の大多数がブロック体なのは、しかし、ありがたいことで、筆記体の文章はやっぱり読みにくい。装飾的な線が多いし、現在良く見かけるイギリスの手書き文字とも違うので、一瞬調整が必要なのだ。読めるけれどね。

私は、一時期まで使っていた筆記体を大学を出てすぐぐらいに「矯正」した気が・・・だって、「おばあさんみたいだねえ!」と嬉しくない感心のされ方をするんだもの。などと、思いつつ、しかし、「書けない」ということは「読めない」ということでもあるのかもしれず、それはそれで「あまり良くないこと」なのかも・・・とも思う。筆記体が読めれば、20世紀頭ぐらいの自筆手紙が読めるか、っていうと全然そんなことはない、ことは、アーカイブめぐりをしているとひしひしと感じることではあるけれど、それでも筆記体を知らないと、それはそれで余計に苦労なのかもなあ、等。

筆記体がいつの間にかレアな存在になっていた - エキサイトニュース

*1:すごく、不思議、というわけではないのだけれど、微妙に、昔の日本の書道の地位なんかが影響している気が・・・