会議と救済レポートのはなし。

会議終了。まだまだ雑務が残っているのだけれど、それはそれで良いと言うことで。授業はとりあえず終わったけれど、採点が終わっても集計だのなんだの仕事が多いことには変わりはない。さっさか終わらせて、子供を保育園から拾い、夕食を作らないと!今日こそは早く寝かしつけて、読みかけのウォーターズを読み終える予定。なんか途中でやたら仕事が入っちゃって1ヶ月ぐらい放置して他の本を読み始めちゃったりしたのよね。どうするともう少し仕事が早くなるのだろう?

さて、こうやって仕事をしていて思うのは「仕事を持たないって大変だなあ」ということ。
学生の頃は大変だった気がするからだ。責任を持たされないことの辛さ。であるとか、そんなこと。
自分が働くことで世界とつながることにはたぶん、何らかの安心感がある。ワーカホリックになる人がでるわけね。
「どうして学生さんは出席をしないで『救済レポートを出してください!何でもします!』って来るのかしらね?」
とぐち半分同僚と話をしていて思ったのだけれど、でも本当は分かる。ちょっとだけ。
親はそうだから。どんなに都合が悪くても子どもが「頑張っている」ことに時間を掛けることをためらう親の子供はたぶんうちの大学にはあまりこない。

そして、本人も仕事をした経験が圧倒的にないから。
だから、教員が当然のように教育という仕事をしている時間(授業中、テスト中、レポート採点中)ではなく、本来だったら他の業務をしているはずの時間に「レポート採点」というもうひとつの仕事を突然投げつけることに「他人の時間を奪っている」という感覚が全くないわけね。むしろやる気を評価してもらえるはずだと思っている。
時給1000円の人に頼むのだったら1000円お財布から出して私にください、って言うに等しいことなわけだけれど。
頑張っている学生に時間をさくことには全く(といったら嘘か。あんまり)ためらいはないけれど、「救済レポート」って何?本来だったら来年度の教材を作ったり、自分の勉強をしたりするべき時間にポイっと放り込まれる小石。

教員と学生の間の大きなギャップはたぶん、知識や世代や年齢以前に「働く人」と「働いたことのない人」のギャップなのだろうなあ。でも、子どもたちに「働いてはいけません」「子供らしくないこと/中学生らしくないこと/ 高校生らしくないことはしてはいけません」「家事だってしなくて良いです」「勉強だけに集中しなさい」と言ってきたのは学校だし親だし大人なんだよね。
というわけで彼らを責めるのはたぶんフェアではない。「社会人になったら通用しないよ」としたり顔で語ることも。だって、社会人になったらちゃんとやるでしょうよ。就職活動を終えた4年生は行動のパターンが変わっているもの。

ということは、「救済レポートお願いします」と言う学生は、今後も一杯来るのかも。そして、毎回ため息をつきながら「受け付けません」と言うことになるのかも。
ああ、なんか気分が暗くなる。