「●●な〜〜が、増えている」という言説

ジャーナリズムは「○○な〜〜が、増えている」という文の形が好きだ。「給食費の未払いが増えている」「ニート増えている」のように。ヴァリエーションとしては「○○が〜〜化している」なんていうのもあげられる。「大学教員がサラリーマン化している」とか。*1
前にもちょっと書いたけれど給食費の不払いが増えているかどうか、は、わからないし、「〜化」であっても、通常、きちんとした定義も裏づけもないことのほうが多い。
「ていうか、そうしないと記事にならないじゃん」と、ジャーナリストであるところの夫は言う。それはわかる。あれだけ短い時間であれだけ文章を産出し、なおかつニュースバリューも、なんていうとそうなるだろう。そもそも論文と新聞記事は目的も形式も違うので別にそれが「悪い」と一概に言っているわけではない。
しかしだ。「小論文」であっても一応「論文」と名前をつけている以上、その手の表現を裏付けなく使うことはできないわけよね?
年度末、色々昨年度の仕事を振り返って、教科書原稿にあちらこちら訂正を入れていると、いかに「文章を書く」という行動が「文章を読む」という行動と密接にかかわっているのか、ひしひしとわかって頭を抱える。批判的に読むことと論理的に書くことの間を、はてさて、教科書は埋めることができるのかどうか。*2

*1:サラリーマン化していない(=はたから行動をチェックされることもなく、年々論文を発表することに追われもせず、悠々自適で天才肌の研究者、といったイメージ?)教員はちょっと怖いと思うんだが。ま、いいや。

*2:ある意味ではイザーだの、バルトだの、フーコーだのの「理論」を、個人名をあえて出さずに、考え方の大枠だけ示してがっちりやったほうが良いのかも、と時々思うこともある。なんか、求められているものからずれそうだからやりませんが。