キリスト教関連を何冊か

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

これは必携。特に役に立つのが各教派についての簡単な説明で、教派ごとのタームの日本語訳など非常に丁寧。(ちなみに宗派、は仏教の場合で、キリスト教の場合は「教派」)

愛蔵版 イエス

愛蔵版 イエス

漫画版。脚色は入っているものの、歴史としてイエスの死をえがこうとしているもので、(ただし語り手は虚構の「イエスに愛された弟子」)学生さんにはとっつきやすいかもしれない。オールカラー。

隣人愛のはじまり―聖書学的考察 (シリーズ神学への船出)

隣人愛のはじまり―聖書学的考察 (シリーズ神学への船出)

題名から多少警戒していたのだけれど、それは聖書学をよく知らぬがゆえだったと読み始めてすぐに反省。面白かった。

そして愛敵を語ったイエスの意図―隣人愛が持つ限定性への批判―は伝わらず、むしろ「敵をも愛する隣人愛」という仕方で、隣人愛の徹底として愛敵が受け止められたことを示している。
 この理解は、イエス自身の意図とは合致していない。その意味では、イエスの言葉を「誤解」したものだと言える。イエスにとって「愛敵」は、隣人愛が無言のうちに前提している排他性(どこまでが、愛するべき隣人の範疇なのかを問題にしてしまう意識)を暴く、批判的視点の表現であった。だがそれが、「教祖」イエスの言葉、キリスト教徒が従うべき教えとして受け止められるようになった時、イエスの意図を超えた意味を獲得し(てしまっ)たのである。  (96)

「イエスはあくまで隣人愛の唱道者ではなく、批判者」(159)という理解に基づいて、パウロ以降の隣人愛概念がどのように機能したか、を著者は以下のように語る。

[...]敵をも愛する隣人愛によってキリスト教の普遍性を裏付けたはずのパウロは、隣人愛の持つもう一つの側面、すなわち共同体内部のアイデンティティ強化という働きをも、期せずして受け継ぐことになる。ユダヤ人/異邦人という境界線は確かに、もはやパウロにはなかった。しかし、教会共同体をつくり上げることに熱心だったパウロにとっては、教会内部の人間関係を強化することが重大な関心事であり、そのため、隣人愛はもっぱら教会内部の「兄弟愛」として具体化されることになったのである。(162)

キリスト教は、その再初期から、イエス自身に由来しない多くの要素を含んだ宗教運動であった。なぜなら、キリスト教徒はその出発点からすでに、エスの教えを伝える宗教ではなく、エスの出来事を解釈する宗教だったからである。(172)[太字は原典では傍点]

重要なのは、愛敵を実現できるかどうかではない。「敵をこそ愛するべきではないか」という、現実離れした要求は、他者を隣人と敵、愛せる人間とそうでない人間とに分ける姿勢を批判的に浮き彫りにする逆説なのである。(178)


Thirsty For God: A Brief History Of Christian Spirituality

Thirsty For God: A Brief History Of Christian Spirituality

キリスト教史、といってもスピリチュアリティという切り口での入門書。
幾つかはじめて納得することもあり、面白かったのだが、フェミニズム神学の部分のみは、読んでいて納得が行かない感が。門外漢であってもきいたことがあるようなレズビアン神学者が入っておらず、フェミニスト神学の内容量と比べるとかなりの部分それに対するバックラッシュの紹介にさかれているような。
ひとつ面白かったのがラビリンス運動。中世のキリスト教において行き止まりのあるメイズと比べ、基本的には一本線で中心に向かい、やがて外に向かっていくラビリンスは信仰のメタファーとして、歩く瞑想のために用いられた、というのはかつてどこかで聞いたことがあったのだが、ここで初めてその「伝統」の再興が80年代の運動にあると知る。