これまでゼミで学生を指導してきた経験からいうと、学生のレポートでもっとも顕著に見られる傾向には2つのタイプがある。

第一のタイプは、内容が講義や資料・文献の単なる要約(あるいは複数の文献の切り張り)に終わってしまっていて、執筆者の視点・立場・見解が不在のレポートである。これは「よくできている」レポート、「よくまとまっている」レポートにおいても見られる傾向である。こうしたレポートにあっては、レポートをまとめる作業が結局のところ、講義ノートや資料の内容を縮めるだけの単なる肉体労働になってしまっていると言えよう。  

第二のタイプは、それとは逆に、資料・文献には依拠することなく、ただただ自分の感想を書き連ねることに終始したレポートである。資料はほとんど読まずに、自分の頭の中にあることだけを絞り出して仕上げてしまうわけで、結論はだいたいのところ、いわずもがなの常識的な線に落ち着くのが普通である。

(この二つのタイプのレポートの混合型として、第一のタイプのレポートの末尾にきわめて常識的でありきたりのコメントがつくこともある。)

[中略]
問題なのは、一見「よくできている」答案を書いた学生の多くが、「的確に」「整理」された資料のまとめとはまったく切れたところで、通俗的歴史観、社会観を「カスリ傷ひとつ」負わずに保持し続けているかもしれないということである。そして多くの教師がそのことに気づかぬままに、自分の「ピエロ」ぶりを意識すらせずにピエロを演じ続けているのではないのか。これこそ悲喜劇である。


[中略]
これまでの経験からいえば、まず、学生が文献や資料を突き放して論じるようにくどいほど何度も何度も要求することである。具体的には、ゼミの発表などで文献の内容を紹介させる場合、「著者によれば」との限定を常につけさせる。そうすることで、文献で展開されている議論を学生がいつのまにか自分の議論として(無批判に)展開しているという非常によく見られる現象を防止できる。(小生はこうした現象を「霊媒」と呼んでいる。他人の言葉を自分の口を通して語っているだけだからである)。やってみると分かるが、何度要求しても、いつの間にか学生は「霊媒」を演じている。自己の思想との対決なしに与えられた知識を無批判に受け入れストックするという、小学校以来12年間にわたる教育のなかで肉体化させられてきた学習法の「成果」である。

レポートを書かせてはいけないか